院長紹介

ここでは、現在のエネルギー整体を行うに至るまでのお話しをさせて頂きます。
とても長いのですが、宜しかったらお付き合い下さい。

初めてのカイロプラクティック

私は、10代の頃から腰が悪かったのです。
それは、突然やってきました。 ある朝、ベッドから起きあがろうとした時・・・。
ガーン!! う、うごけないのです。
これが、ぎっくり腰だと知ったのは、後の事でした。

その時、初めてカイロプラクティックというものを体験しました。
その当時(25年ほど前)は今と違い、まだカイロプラクティックはあまり知られていませんでした。たまたま、家業の会社の隣が、カイロプラクティックを使う治療院だったのです。

ここの先生は、按摩・指圧・マッサージ師の免許を持っているにもかかわらず、自費診療だけをやっている、少し変わった先生でした。
この先生のやり方は、一言で言って怪しいです。(私と同じか?)

患者さんの筋力を使って、検査をしながらポイント調整していきます。
調整の仕方は、200万以上もするトムソンベッドでした。

『ガシャ!』ってやる、ドロップベッドです。
一人あたりの施術時間は、30分ほどです。
それが、面白いように症状が楽になるのです。

この時、初めてOリングテスト(拇指対立筋:親指と小指)というものを体験しました。
それから、頻繁にこの治療院に通うようになりました。
この治療院は、後に、プロ野球選手が何人も訪れる治療院になります。

思えば、これが今の仕事をすることになる、一つのきっかけだったのかも?しれません。

大学卒業後は家業を手伝う

大学卒業後、家業を手伝いました。
私の父(大正14年生まれ)は、蒲田で町工場を経営していました。

父は戦争当時、秋田から東京に出てきていました。
叔父さんに来た召集令状を自分のと勘違いして、秋田に帰りました。
その帰った翌日が、東京大空襲だったのです。東京は焼け野原になり、多くの人が亡くなりました。
恐らく、父が勘違いしなかったら、私は生まれていなかったと思います。
何て、ラッキーなんでしょう!

そんな訳で、私は昭和36年の6月15日に蒲田の東邦医大で生まれました。
小学校3年まで、糀谷という羽田空港に近い所に住んでいましたが、小学校4年の時、横浜の鶴見という所に引っ越しました。
もともと喉が弱く、お医者さんの薦めもあり、少し空気の良い所に引っ越すことになったのです。

鶴見と言えば京浜工業地帯なので、あまり空気が良いとは言えませんが、比較的山側の高台に移り住みました。蒲田に10年、鶴見に35年ですから、こちらの方が長くなりました。

私が20才の時に、父が亡くなりました。肝臓ガンでした。
若い頃、お酒をかなり飲んだようです。発見した時には、もう手遅れでした。
最後は全身に転移していて、頭にもこぶのような腫瘍が出て手術もしました。
父は手術後、一度退院してから仕事に復帰しました。それからどれぐらい経ったでしょう・・・。

8月の暑い日でした。
今夜が峠という事で、私は病院の駐車場で一夜を過ごしました。その日は、大丈夫でした。
2晩目の深夜、駐車場にいた私を姉が呼びに来ました。
それからまもなく、父は56才で亡くなりました。

五目そばと錦鯉が大好きな父でした。
会社は、母が引き継ぎ、社長となりました。

大学生だった私は、当時バイト(ケン〇ッキーフライドチキン)に明け暮れていました。
元々、食べることや食べ物を作ることに興味がありました。
その反面、機械関係のことはまるっきり興味がなかったのです。
一番嫌いな分野だったと言っても良いと思います。

父が亡くなってから、ますますバイトにのめり込んで荒れた生活になった時もありました。
しかし、大学卒業の頃には家業を手伝うようになっていました。

家業を手伝い

それから家業を、15年以上手伝いました。
当時の会社は、主に天井クレーンの走行車輪と歯車(直径が500㎜~900㎜の大きなもの)を機械加工していました。
私は、1.5tのトラックを運転して納品したり、時には簡単な機械加工も手伝いました。

結婚して子供が生まれて数年してから、転機が訪れました。
仕事をもらっていた親会社の経営が悪化し、仕事が激減してしまったのです。
当時は、9割ぐらいがそこの仕事でした。

いろいろとやり繰りしながらやってみましたが、人件費などを考えるといつまでも同じ状態は続けられません。そこで、事業を大幅に縮小する事にしました。
私の母も危機感を感じたのか、初めて、「これからは、お前の好きなことをしなさい。」と言いました。生き残る為には、仕方がなかったのかもしれません。
会社自体は今もありますが、私自身は新たな人生を歩くことになりました。

そんな時、新聞である広告に目がとまりました。
カイロプラクティックの学校の1日体験入学の記事でした。
例の怪しい先生のところにずっとお世話になっていたこともあってか、とても興味がありました。最大手の学校で、幸いな事に横浜校が鶴見にあったのです。
締め切り日の前日でしたが、連絡して行ってみることにしました。

約半日の体験入学でしたが、とても新鮮に感じました。
ただ、お金がすごくかかるのと子供がまだ小さいのがネックでした。
しかし、入学を決意するのにそれほど時間はかかりませんでした。
何やら、急速な流れを感じていたからなのかもしれません。

結局、2年制の夜間部(月曜日から金曜日の18時~21時)に入ることになりました。
昼間は仕事をして、夜は学校に通いました。
ここの学校は、テクニック(実技)以外に座学もありました。
解剖学・生理学・病理学・内科学・運動学・免疫学・公衆衛生など多岐に渡っていました。
医学的知識が全くなかった私にとっては未知との遭遇でした。

夜間学生時代

秋の入学(1998年10月)ということもあり、社会人の転職組ばかりでした。
平日は、昼間働いて夜は学校に通いました。
土・日は、マンションのプラカード持ちのバイトもしました。
実に、アルバイトは十何年ぶりです。

ポイントとなる交差点まで、イスとプラカードを持って歩いて移動します。
要するに、道案内の表示板です。このバイトは、座ってよかったので助かりました。
午前中は、平日の疲れからか、ほとんど寝ながらプラカードを持っていました。
午後は、本を読んだり、試験前には試験勉強もしました。これで確か、時給950円だったと思います。ただ、雨が降った時が大変だったのを覚えています。そんなバイトも、マンションが完売してモデルルームが閉鎖したのに伴って辞めました。
それからは、無給でしたが卒業生の整体院や学校併設の整体院にもお世話になりました。

私はこの学校で、とても良い座学の先生と巡り会いました。
この先生は、看護学校でも教えている女性の先生でした。
厳しいけれど、とても解りやすい授業でした。

この先生からは、解剖学・病理学・公衆衛生と習いました。
この時習ったことは、今でも患者さんへの説明の時に使うことがあります。
その反面、実技の方は少し疑問を感じ始めていました。
カイロプラクティックというのは、骨を中心とした考えです。
骨の歪みを矯正して、治していくという考え方です。

入学して半年ぐらいした頃でしょうか?
「骨中心では治らないな」と、秘かに思うようになりました。
何故なら、テクニックの授業の後で調子を崩す人が続出していたからです。
確かに、不慣れな者同士がペアを組んで練習するのですから、仕方がないのかも?しれません。しかし、自腹を切って付属の治療院で施術をしてもらったのですが、それでもいっこうに良くならなかたのです。

私は、卒業と同時に開業しようと思っていたので、このままではダメだと思いました。
そこで、学校とは別に、筋肉の勉強を始めることにしました。

学校とは別に、筋肉の勉強

2000年の1月から、学校とは別に、筋肉の勉強を始めました。学校に入って1年を少し過ぎた頃でした。筋肉の勉強は、主に上野に通いました。 その当時に、一世を風靡していた療法がありました。筋肉の反射を使って、面白いように痛みを緩和していきます。

骨がずれるのではなく、硬結している(つかんでいる)筋肉によって骨がずらされている(引っ張られている)という理論です。
骨を引っ張っている筋肉を緩めれば、勝手に骨は元の位置に戻っていく訳です。
つまり、骨を矯正する必要がありません。
硬結している筋肉を緩めるのに、筋肉反射(離れている筋肉を使って緩める)を使います。

「これは、なかなか面白いな!」と思いました。それから、足繁く通うようになりました。
何故なら、10月に学校の卒業を控えていたからです。
早く修了したいので、仙台にも泊まりがけで2度ほど行きました。
宿泊は、経費節減のため、カプセルホテルに泊まりました。
その甲斐あってか、11月には基礎編の修了書を頂くことが出来ました。
その療法の本が出版される事になり、巻末のリストにも載せて頂くことになりました。
同時期の初受講者の中では、2人だけでした。

学校の方も、一生懸命通いました。2年間で、休んだのは1日だけでした。
5月に娘が生まれたのですが、その前に妻が切迫流産(流産しそうな危険な状態)で緊急入院しました。その時だけは、休みました。

2年間の最後の半年は、インターンです。卒業生や系列の整体院に研修に行きます。
結局、私は学校付属の整体院に行く事にしました。
インターンは、最低200時間なのですが、頑張って272時間勉強しました。
その甲斐もあったのか、同期の中で最優秀賞に選ばれました。
卒業式の時に壇上に上がって、賞状と記念品(大きな医学的パネル)を頂きました。

そんな訳で、開院当初は、学校で習ったことプラス筋肉反射というスタイルでした。
そんな中、筋肉の勉強を更に深めていきます。

今度は、臨床セミナーというものに参加するようになりました。
これは、創始者の先生や講師の方々を施術して、評価してもらうというフィードバック形式のものです。もちろん、基礎編修了者が受講資格を与えられ、白衣着用です。
これが、なかなか厳しいセミナーでした。

全9項目を受講して、5月(2001年)には認定証を頂きました。
次は、いよいよ講師養成セミナーという時・・・、ある療法が気になっていたのです。

気になる療法

実は、一年以上前(卒業より前のインターンの頃)から気になっている療法がありました。しかし、あまりにも高額なので躊躇していました。
受講料は2泊3日で、その当時30万円でした。
その後、45万円に値上がりします。これに、消費税がつきます。
学生だったり、開業直後では、金銭的につらい場面でした。

しかし、ずっと気になっていました。それは、気エネルギーを入れる療法でした。
具合の悪いところは、エネルギーが不足している状態ととらえ、高エネルギーを入れることによって解消するというものです。
治療系の気功といったところでしょうか?興味はありましたが、諦めかけていました。
ところが・・・。

2001年の3月から、1年コースというものが出来るというお知らせが来ました。
毎月1回、全12回で学ぶコースです。
これならば、家を空ける必要もありませんし、一度にお金を払う必要もありません。
受講料は、月3万8千円プラス消費税でした。トータルすれば、結構な金額になります。

まだ開業4ヶ月でしたが、迷わず受講しました。
後に、この1年コースは無くなりましたので、最初で最後のチャンスだったのかも?しれません。2001年の3月からは、この気エネルギー療法も受講することになりました。

気エネルギー療法の勉強は、主に池袋に通いました。
毎月一回の1年間ですから、ゆったりとした感じで勉強できました。
これがなかなか面白いのです。目に見えない世界の魅力に引き込まれていきました。
とにかくテクニックが豊富で、新しいことがどんどん出てきます。
堅苦しい感じもなく、和気あいあいとしたセミナーでした。
開業して半年ぐらいしか経っていませんでしたので、夢中で勉強しました。

1年コースの1年が終わり、引き続き毎月の研究コース(3万円プラス消費税)にも出るようになりました。やり方がどんどん変わっていきましたが、それなりに患者さんの評判は悪くなかったと思います。
この時のエネルギーは、今は全く使っていませんが、理論的な面は今の施術に応用させて頂いています。

なんだかんだ2年以上、熱心にやっていました。
そんな中、またまた気になる療法がでてきました。

またまた気になる療法

気エネルギー療法をやっているときに、そのやり方と喧嘩をしている療法があることを知りました。興味本位でホームぺージや日記をのぞいてみました。

ちょっと変わったやり方でした。
その当時は、気エネルギー療法を熱心にやっていたので覗いているだけでした。
それから半年ぐらいが経って、ナンバー2の方が辞められるのに伴って少し興味が薄れてきました。そんな時、その喧嘩相手のところに行ってみることにしたのです。
場所は、東京のはずれの小平というところでした。

まず、施術を受けてみました。そこでは、今までの私の常識をくつがえす事ばかりでした。
カルチャーショックを受けたと共に、自分自身を否定されたようにも感じました。
ここで、後戻りしてしまう人と先に進む人がいると思いますが、私は後者を選びました。

千葉の講習会に初参加

本部の講習会が待ちきれず、千葉の講習会に初参加しました。
なかなか、アットホームな良い講習会でした。

少し怪しい?内容ですが、目に見えない世界に引き込まれていきました。
気功はエネルギーを入れる療法(足し算)ですが、こちらはエネルギーを抜く療法(引き算)です。『痛い身体から、痛いを引いたら、身体だけ残る』と、言った感じでしょうか?
その場で変化が出るので、熱心に勉強しました。

やり方を変えなければいけないので、頑張って2ヶ月で修了書を(6回受講)もらいました。
その後も熱心に通いました。4月に4回、受講した月もありました。
何だかんだと、合計40回ぐらい受講しました。

やり方が変わると、患者さんの層も徐々に変わっていきます。
やり方にも少し慣れてきて、順調に推移しているように思えました。
しかし、この後・・・。予想もしなかった事が、私を襲います。

インターネット上のトラブル

一見、順風満帆に行っているように見えました。
ところが・・・・。ある些細な出来事をきっかけとして、私の人生は大きく変わっていきます。
2005年の秋のことでした。

インターネット上のトラブルがありました。
私には関係のないことと傍観していたのですが、いつの間にか関係者になっていました。
自分で言うのも何ですが、私は、40年以上真面目に生きて来ました。
身に覚えがないので、当然抗議しました。

ところが、事態はどんどん拡大(悪化)していきます。
あまりの事に、名誉毀損の裁判も考えました。弁護士さんも、ほぼ決まっていました。
そんな中、迫り来る異変が近づいていたのを、私は知るよしもありませんでした。

来院数が激減

それは、突然やってきました。
患者さんの来院数が、どんどん減ってきたのです。

私のところは開院以来、比較的同じようなぺースでしたので、こんな事は初めてでした。
そして、巡り合わせの良くない事も頻発してきました。
「何故なんだろう?」と、悩む日々が続きました。この時はまだ、理由が解りませんでした。

そしてとうとう、2005年12月の売り上げが、過去最低になりました。
家賃もありますし、家族もいます。
「このまま回復しなかったら・・・」と、悪い考えばかりが頭をよぎります。
閉院? 転職?
そしてついに、通帳残高が16,494円になってしまいました。ピンチ!!

そんな時、ある答えにたどり着きました。生き残るために究極の選択を迫られた私が導き出した答えは・・・。

こだわりを捨てる

導き出した答え・・・。それは『こだわりを捨てる』ということでした。
つまり、争うことを止めました。 私にとって、とても勇気のいることでした。
そして、所属していた会から離れ、一人でやっていくことにしました。
結果的には、これが良かったのかも?しれません。

それからしばらくして(2006年3月頃から)、どん底だった状態が急激に回復していきました。良い出会いにも、恵まれるようになりました。
そして2006年は、過去最高の年になりました。
わずかの間に、地獄と天国を経験しました。

この経験を元に、いろいろなことが解ってきました。
実体験から得た法則性ほど、強いものはありません。
今なら、どうしてどん底になったのかがよく解ります。

そして、そこから救ってくれた人がいます。
それは意外な人物でした。その意外な人物とは?

これから先は、かなり怪しくなります。
目に見えないことを信じない方は、お読みになるのを止めて下さい。

不可思議な出来事

トラブルを抱えていた時のことです。
ある患者さんを、施術していました。
施術が終わり、患者さんがお帰りになろうとしました。
ところが・・・。

急に、「胸が苦しい!」と、訴えます。
施術をしてみますが、楽になりません。
仕方がないので、原因となっているエネルギーを降霊してみることにしました。

実は、この患者さんは、降霊出来る患者さんだったのです。
すると、そこに現れたのは・・・。

あ なたは誰ですか?と、聞いてみました。
すると・・・「あなた自身です。」と、答えが返ってきました。
どうやら、『内なる自分』のようです。

「ええっ!」 さすがに、ビックリしました。
どうやら、私に言いたいことがあるそうです。
このまま患者さんが帰ってしまったら、私と話す機会がないので、勝手に移動してしまったようです。

私:何が言いたいんですか?
内:こだわりを捨てなさい。
私:無実を証明するのは、いけないことなのですか?」
内:何故、あなたは、そういう考えしか出来ないんですか!無実を証明するのも、人を責めること。人を責めることは、自分を責めること。
私:・・・・・
内:争っても、失うものが大きく、得るものは少ない。目の前の、あなたを頼ってきている人たちに集中すること。

「ガーン!」と、バットで殴られたような衝撃を感じました。
トラブルに気を取られ、目の前の患者さんに100%全力投球出来ていないことを見抜かれていました。

当然、モチべーションが下がっていますので、微妙に来院数にも影響が出ます。
それが、どん底状態になっていった一つの原因でした。

私は、しばらく考えました。
例え、争いに勝ったとしても、遺恨を残します。
それが巡り巡って、違った形で新たなトラブルが起こってきます。
得るものより、失うものの方が大きいかもしれません。

それだったら・・・。
「解りました。」と、私は答えました。
こだわりを捨てた瞬間です。
目に涙が浮かんできました。

そして、大切なことを教えてくれた、内なる自分に感謝しました。
不思議なことに、患者さんの胸の苦しみは、ウソのようになくなっていました。

試行錯誤をしながら

それからというもの、試行錯誤をしながら一人でやってきました。
当初、「まだ一人でやっていくには、時期が早いんじゃないですか?」と、心配してくださる方が沢山いらっしゃいました。

確かに今まで、習う一方で、教えることなど皆無でした。
がむしゃらに勉強してきたので、無理もないかもしれません。
どちらかというと、依存心が強かったと思います。
私には今、師と呼べるものがありません。
それが良いのか?悪いのか?解りません。

しかし、頼るものがなくなったことで、自立心も出てきました。
今までの私には、無かったものです。
当初は、依存心が出て失敗したこともあります。
その中から、学んで次に生かして来ました。

そして、2006年3月ぐらいから、どうにか形になってきました。

試験的に個人レッスンを開始

ずっと以前から、「先生は、教えないんですか?」と聞かれることが多くありました。
その度、「まだ教えられるレベルじゃないですよ。」と、答えていました。
事実、自分が教えるということなど、微塵も思っていませんでした。

そんな中、ある方からの勧めもあり、少しずつ心境に変化が出てきました。
そして、2006年の4月から、試験的に個人レッスンをやってみることにしました。
今まで教えた経験がないので、手探り状態でした。
試験的レッスンを重ねる内に、なんとかやっていける目途がつきました。
そこで、2006年6月から正式に受講生を募集しました。

おかげさまで、今まで(2017年6月現在)、延べ1,100回以上の開催で500人以上の方に受講して頂きました。遠くは、札幌・秋田・岩手・栃木・群馬・埼玉・千葉・静岡・愛知・三重・富山・和歌山・大阪・神戸からも来て頂けるようになりました。

恐らくあの時、こだわりを捨てていなかったら・・・。
今の私は、なかったと思います

現在・・・

今振り返ってみて・・・。
あのトラブルは、「かえって良かった!」と、思えるようになりました。
何故なら、あの出来事を通して、色々なことを学んだからです。

やはり、実体験を通して得た法則性は、宝になります。
自分にとって困難(ハードル)が訪れた時、それは学びのチャンスでもあります。
その時は辛くても、必ず解ける問題しか起こりません。
この時、自分以外のせい(家族・他人・環境など)にすると、困難(ハードル)は、ずっと続きます。要するに、問題をクリアーしていないので、同じような問題が起こってしまうのです。

ところが、困難(ハードル)が訪れた時、「誰に責任があるのではなく、自分自身に問題がある」と、気がついた場合・・・。
その後の展開は、大きく違ってきます。

今の自分は、少し前の自分が考え・話し・行動したことがべースに出来ています。
つまり、『困難が訪れるには訪れるだけの理由が、自分の中にある』訳です。
『自分自身が困難を引き寄せている』と、言っても良いかも?しれません。
決して、周りのせいではありません。
自分自身がそういう流れを作っているのです。
人は、変えられません。
変えられるのは、自分だけです。
だったら、自分自身と向き合うしかありません。

困難を引き寄せている自分自身のパターンを分析して、本気で変えた時、何かが変わるような気がします。
これは身をもって、私が体験してきたことです。
おかげさまで、トラブルに感謝出来るようになりました。

トラブルは実は、『自分自身を成長させる為のもの』だったのかも?しれません。

私がどん底の時期に、励まし、支え、応援して下さった方々に、感謝せずにはおれません。
そして、家族にも・・・。
これからは、少しでも、恩返しが出来たらと思います。

整体という仕事を通して、ご縁のあった皆さんのお役に立てることが、私の喜びです。
長い文章にお付き合い頂き、ありがとうございました。